第38回少年の主張 福島県大会 最優秀賞

インド人~喜捨のこころ~

会津坂下町立坂下中学校 3年 榊原 光起

「本当の豊かさってなんだろう。」インドで生活していて考えさせられたことです。

中学2年の4月、父の仕事の都合でインドに行くことになりました。行く前に抱いたインドのイメージは治安が悪く危険な所。貧しくて汚い、人が多くて雑然としているといったマイナス面しか浮かびませんでした。しかし、絶対に行きたくないという僕の意思はあっさり無視されました。

去年の4月インドに降り立ちました。飛行機を降りた瞬間、蒸し暑さと濁った空気に包まれました。町に出ればマーケットの悪臭と道路に吐かれた、たくさんのつば。汚れたものを外に出すことで体内をきれいにすると考えられているつば。「どれだけインド人の体内は浄化されているんだ」と悪態をつきたくなりました。さらに、交差点で車を止めるとお金や食べ物を恵んでくれと貧しい人たちが近寄ってきます。「インドで暮らすのはやっぱりムリ、早く日本に帰りたい。」と何度も思いました。

そんなある時、交差点で止まるといつものようにお金を恵んでもらうために、窓ガラスをコンコンとたたく人がいました。その時、雇っていた運転手のダランビールさんが窓を下げてお金を渡したのです。10ルピーでした。日本円で20円です。ダランビールさんは決して豊かではありません。お金持ちでもないのになぜお金を渡したのか不思議でした。父に聞いてみるとそれは「喜捨」という行為だと教えてくれました。「喜捨」とは富む者が貧しい者を助けるためにお金や物を喜んで与えることです。

ある日、髪を切ってきたぼくに友達がいくらだったのか尋ねてきました。400円ぐらいと答えると「おれは100円だった」と自慢げに言うのです。街路樹の下で椅子と鏡だけの床屋で切ってきたのだそうです。詳しく聞くと「値段はいくらでもいい」と言われたので50ルピーを払ってきたとのこと。普通に考えれば「いくらでもいい」などと言えば法外に安い金額しか払わない人がいるのではないかと思いました。しかし、インドの人はそんなことはしません。自分の収入や持っているお金に見合った金額を払うのが当たり前だからです。そしてそれは暗黙の了解として人々の心に根付いているのです。だから、その床屋さんはいくらでもいいと言えるのでしょう。「喜捨」ができる社会、そして、そこに生きる人々、たとえ、お金はなくても心は決して貧しくはないと感じた瞬間でした。

「喜捨のこころ」を象徴するお寺がぼくの住んでいたニューデリ―の北にありました。サリマンディル・サーヒブ寺院です。そこでは24時間いつでも人種や宗教、社会的地位に関係なく、無償で食事が提供されます。その数、一日10万食。その全てを寄付と300人のボランティアで賄うという伝統が500年も続いているのです。

「本当の豊かさ」について考えている時、母からムヒカ大統領のスピーチを教えてもらいました。「貧しさとは持っていないことではなく、いくらあっても満足しないこと」とありました。僕はわかったのです。「本当の豊かさとは足ることを知っている心だ」ということを。運転手のダランビールさんもお寺に寄付している人も、ボランティアをしている人も床屋さんも、そして、ほかのインドの人もみんな「足ること」を知っている人なのです。少しのお金でも、物でも足ることを知っているから分け与えることができるのです。

日本に帰国して考えさせられました。念願の帰国です。清潔な街並み、治安も良く安心して暮らせる国、経済的にも豊かで、物乞いをする人もいません。本当に住みやすい国だと改めて思いました。しかし、いつも何かに追いたてられているようにせかせかと忙しく、消費に明け暮れている私たち。たとえばタンスに眠っているたくさんの服。生活に困らないのにもっともっとお金を欲しがり、自分の生活に満足できないでいる私たち。僕もその一人なのです。

自分が「豊かか貧しいか」なんてインドに行くまでは考えた事さえありませんでした。でも、あれほど行くのが嫌だったインドで僕は「喜捨のこころ」を見ました。それは本当の豊かさを示すものなのです。延いては他者に対する優しさにつながる心です。物質的に豊かな私たちだからこそ、今、「足ること」を足下から見直さなければならないと痛感しました。