第39回少年の主張 福島県大会 優秀賞

つながりの中で学んだこと

桑折町立醸芳中学校 3年 阿部 円香

 どうして他人(ひと)はくじけずに生きていけるのだろう。困難にぶつかって心がふさぐたび私はそう思う。

 福島第一原子力発電所の事故から6年が過ぎた。私の祖父母は、富岡町から私の住む桑折町に避難してきた。祖母が桑折町出身で、その関係で避難したのだ。震災からしばらくして一時帰宅が認められると、いち早く富岡に戻り、防護服を着て家の片付けをした。放射線もまだ高いときで、祖父母が心配だった。そんな私に、「富岡の家はあきらめきれないんだよ。」と言った祖父の言葉が忘れられない。家を元に戻すことは、祖父母がこれまで生きてきた中で築いてきたものを守る行為だったに違いない。

 祖父母が、遠く離れながらも必死に守り続けた富岡の家は、2年前に空き巣の被害に遭った。家の鍵が壊され、荒らされ、たばこの吸い殻が落ちていたという。居間には家族の写真が飾られていた。泥棒は、この家に住みたくても住めなくなった人たちの写真をどんな思いで眺めていたのか。人としての心を疑った。落胆しながら話す祖父にかける言葉がなかった。何も盗られなかったというが、泥棒は、私の祖父母が大切に守ってきたものを土足で踏みにじり、ようやく感じ始めていた避難生活の平穏を奪った。そこに相手を思いやる心はなかったのか。私は、人の思いを土足であらすような人間には絶対にならないと強く誓った。

 こんなに大変な思いをしてきた祖父母だが、避難してからの6年を日々前向きに生きている。これは、桑折の人々の温かさのおかげである。

 祖母は子供の頃に仲良くしていた方から誘われ、パッチワーク教室や地域の催し物に参加するなど毎日を楽しく過ごしている。一方の祖父には、避難先の桑折町に昔なじみの知り合いはいない。それなのになぜか、近所に住む方の名前を私以上に知っている。食事会の話や近所の方が玄関に野菜を置いていってくれた話、散歩中に知り合った方から花や野菜の苗をもらった話など、新たな土地で出会った人たちとの出来事を嬉しそうに話してくれる。聞いている私まで思わず笑みがこぼれてしまう。また、祖父は地域の方に「ひまなら交通安全協会の手伝いでもしないかい。」と声をかけられ、毎朝交差点に立って小中学生の登校の安全を見守っている。桑折町の役に立っている。これが何よりも嬉しいことらしい。避難した土地で祖父母が祖父母らしく明るく生活できるのは、家族として本当にありがたいことだ。桑折の人たちは本当に温かい。私も祖父母を支えてくれている方々のように、避難している方の力になりたいと思った。

 中学2年生の夏、私は町主催のボランティア活動に参加した。桑折町では、浪江町で被災された方のために復興公営住宅を整備している。そこに避難された方々との触れ合いを目的としたボランティアだった。私は初め、触れ合うだけでいいのか、何か被災された方の生活に役立つことをしなくてもいいのか、と少し疑問に感じた。活動では、避難された浪江の方々と、桑折町特産の桃でコンポートを作った。普段、あまり家事の手伝いをしない私は、料理の仕方を教えていただくばかり。これでは、私が与えてもらってばかりだと反省しきりだった。そんなとき浪江の方が「また桑折の若い人と知り合いになっちゃった。うれしいねぇ。」と笑顔で言ってくださった。その方は、桑折の人と一緒に何かをするのが楽しくて仕方ないという。その言葉を聞いて「何をしてあげればよいのか」などと、行為ばかりに目を向けていた自分を恥じた。避難者の方々に寄り添い、互いを尊重しあう思いの交流が何よりも大切なことではないか。

 私は祖父母を思い出す。

 避難したこの町で、祖父母は自分らしく充実した暮らしをしている。それはおそらく、周囲の人たちが祖父母の存在を受け入れ、尊重してくれるからではないか。そして、祖父母は、周囲の人たちの行為に込められたその思いを受け止め、それに応えようとできる限りのことをし、町に貢献する。一方的なやりとりではない、互いを尊重し、思いやりをもって支え合う関係が、自分らしく、前向きな生き方を可能にしているのだ。

 震災は大変なことだった。個々によって体験や感じ方はさまざまで、つらい思いをしている人はいまなお大勢いる。けれど、たとえ生まれ育った土地から遠く離され、心砕かれる思いをしたとしても、人はきっと前を見て生きていける。互いに尊重し、支え合える人とのつながりの中に、自分の居場所があると感じられるならば。

 震災が強い衝撃をもって私たちに教え諭したこと、そして、震災に立ち向かい懸命に生きる人の姿が語りかけてくれたことを次の世代へと語りつないでいきたい。

 困難にぶつかったときも前を見て生きていこう。思いのつながりの中にいる「私」を確かめながら。