第40回少年の主張 福島県大会 優良賞

離れていても

喜多方市立高郷中学校 3年 和田 修一

 僕の母は中国人で、日本に住んで18年になる。母方の祖母は中国に住んでいるから、会えるのは、多くても2年に1回くらいだ。

 去年の11月のことだ。僕がいつも通り家に帰ると、母に元気がなかった。母は、祖母の容態がよくないことを聞いていたのだ。僕たちを不安にさせないために母は、「祖母は軽い病気」と嘘をついた。しかし、急に中国に行くと聞いた僕は、祖母が深刻な病状であることを予感していた。

 去年の冬休み前、僕と母と妹二人は、中国に向かった。祖母は、病気を感じさせない笑顔で、僕たちを迎えてくれた。しかし僕は、祖母を心配しすぎて、あまり嬉しい気持ちになれなかった。それに、祖母の声は元気がなく、前に会ったときより確実に、体を動かすのが困難に見えた。僕は、祖母が重い病気であることを確信した。伝えたいことがあっても、中国語が流暢でない僕は、会話がままならない。母は、笑い話をしていた。思い出話のようだった。母は、祖母とはこれが最期になるだろうと分かっていた。

 今年の1月、祖母は亡くなった。つい2週間前に笑顔で話した人が、この世からいなくなったのだ。日本にいた僕たちは、祖母の最期に立ち会うことができなかった。それは、親子である母と祖母が、日本と中国という離れた国で暮らしているということを、改めて僕に感じさせた。自分の母親の最期に立ち会えないというのは、どれだけ悲しいことだろう。母の心には、大きな穴があいてしまったと思った。誰にでも大切な人との別れはある。しかし、若い僕にはまだ、その怖さも実感もない。母は、今どのような思いですごしているのだろう。心がしめつけられた。

 僕は、思い切ってい母に聞いた。母は、辛いことも、真剣に答えてくれた。「自分の母はいつも子どものことを考える、思いやりのある人だった。最期に何もできなくても、許してくれると分かっている。中国を離れて暮らすことは不安だったが、日本の新しい家族がとても温かくて、日本での暮らしがすぐに好きになった。「死」は誰にでも訪れるものだから、生きている間に、身内はもちろんのこと、周りの人にも、できる限りのことをしなければならない。今は、責任をもって日本の両親を大切にしていこうと思う。」と。

 母国を離れて暮らすと決めた母。それを認めた祖母。二人の信頼、つながっている思い。そして、たとえ母国を遠く離れていても、母が祖母の娘として、誇り高く、強く生きていることが伝わってきた。

 祖母の死と母の話から、僕はこう思う。人には、必ず「死」が待っている。それがいつ訪れるかは、誰にも分からない。自分だけでなく、家族や周りの人もそうだ。だから、生きている今、人に思いやりを持って接し、精一杯できることをしたい。

 最近の自分を振り返ると、反抗ばかりして家族を大切にできていないと思う。自分のためを思って言ってくれていると分かっているのに、乱暴な言葉で冷たく返してしまう。これからは、感謝の気持ちをしっかり伝えて、家族の一員として自分ができることをもっと行っていきたい。

 最近、父方の祖父が心臓病で入院した。お見舞いに行ったとき、目の前で倒れる祖父を見て、祖母のようになってしまうかもと心配した。幸い退院したが、生活の中で助けを必要とすることもある。そんなときは僕が積極的に祖父の助けになりたい。亡くなった中国の祖母には何もできなかったけど、祖父には感謝の気持ちを言葉や行動でたくさん伝えて、これからも幸せに生きていってほしい。

 僕も、この家を、高郷を、一度は離れるときが来るのかもしれない。しかし、離れていても、思いはつながっている。大切な家族に思いを寄せながら、それぞれの場所で懸命に生き、人生をまっとうできるようにしたい。祖母と母のように。