第41回少年の主張 福島県大会 優秀賞

限りある命の中でできること

会津若松市立第一中学校 3年 増井清那

 HTLV-1関連脊髄症、この病名を知っている人はいるでしょうか。この病気は、罹った人のごく一部で、脊髄に炎症が起こり両足の突っ張りや痺れ等の症状で自覚するとされている国の特定疾患の一つです。そして、八年前から祖母が闘っている病気でもあります。

 幼い頃から、共働きの両親に代わり、妹と私の面倒をみてくれたのは河東町に住む祖母でした。病気が分かったその日から、何もできない自分や病気を無かったかのように振る舞う祖父母や両親に、言い知れない不安や怒りが積り始めたことを今でもはっきり覚えています。

 大好きな祖母が段々と歩くのが遅くなっていったある年の冬、雪の降る日に学校から帰宅するといつも通りに家には祖母と妹がいました。夕方になり、降り積もった雪道を一人祖母が帰宅するかと思うと、急に心配になり「もういいよ。直ぐにお母さんが帰ってくるから、早く帰りな。」と言いました。祖母は「ありがとう。分かった。」と言い、洗濯物を畳み始めました。言うことを聞いてくれない祖母に怒りを感じると同時に、帰宅しない母に苛立ち、ついに「その足ですることなんてもうないから。邪魔なんだよ。早く帰って。」と心無い言葉を発してしまいました。「ばあば何か悪いことしたか。そんな風に言うなら帰る。」と言い残し、雪が降る中で一人帰宅しました。一部始終を見ていた妹が泣き出した所に母が帰宅し、「怒られる」そう覚悟した時、「遅くなってごめん。ばあばのこと帰らせてくれてありがとう」と意外なことを言い、続けて、「誰よりもばあばのことを心配してくれているのは、清那だとみんな分かっているよ。」と言い、妹を連れて二階に行きました。一人になり、どうすることもできない無力感と、酷いことを言ってしまった罪悪感、分かってもらえた安堵感で、病気を知ってから初めて泣きました。

 優しい祖母は、翌日には何も無かったかのように家に来ていました。あの日から数日後に、祖父と二人になる時がありました。にこにこしながら、「この間は、ばあばと喧嘩したのかな。二人とも元気があっていいね。」といたずらっぽく言いました。あの日にあったことを話すと静かに祖父が話し始めました。病院の帰り道、あと何回通えば終わりがくるのかと泣いていることや、足が不自由な人を見かけると「あの人と比べると、どっちが歩けているか」と祖父に聞いていることを知りました。そして、最後に祖父は、「ばあばにとって一番悲しくて辛いことは、病気が進行することより、二人の面倒を見てあげられなくなることだと思うよ。だから、甘えていいんだよ。」と言いました。溢れてくる涙を、必死に堪えることしかできませんでした。それまでの私は、治らない病気を恨み、祖母が失うものばかり見ていたように思います。しかし、祖父や両親は、何も言わず祖母の思いを大切にしていたのだと知り、祖母を受け入れどう生きるかを大切にしたいと思うようになりました。

 一つの命が誕生するのは、四億分の一の確立だと言われています。しかし最近、命の重さが軽々しくなっていると感じます。身勝手な理由や、欲望で自殺や殺人事件が起き、毎日のように新聞やニュースで報道されています。世界では偏った思想のために、テロや襲撃事件が起こっています。命を奪われた人はもちろん、突然家族を失った人のことを思うと心が痛みます。どの様な状況に置かれても簡単に命を奪ったり、奪われたりすることはあってはならないのではないでしょうか。どう生きるかを考えることが、命を与えられた者の使命なのだと、祖母の生き方から教わったように思います。

 祖母はこれからもたくさんの選択をするでしょう。それがどんな結果になったとしても私はいつまでもその思いに寄り添って応援していきたいです。

 私の将来の夢は、医師として難病の研究をすることです。この夢が、祖母の生きがいの一つとなることを願い、どんな形であっても私が祖母の足になろうと決めました。